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母と娘
彼女はブロンドの長い髪でもなければ、エレガントなミニスカートをはいているわけでもありません。けれども、可愛らしく品のあるきれいな娘です。彼女の名前「ヴァルネミュンデ」といいます。彼女と母ロストックはとても緊密でした。この母娘は互いに15kmほど離れたところに暮らしており、お互いに利益を得ています。母ロストックの力は強大です。800年近くの歴史をもつ元ハンザ同盟都市で、また大学都市でもあります。町には、防衛のために強固な市の外壁と市門、堂々たる市民の家屋、そしてゴシック様式の切妻と中世の教会が建っています。小さな娘のヴァルネミュンデは定評のある海浜のリゾート村です。クアハウスと、こぢんまりしているが手入れの行き届いた漁師や船乗りたちの家々が並び、バルト海の浜沿いには華麗なプロムナードが続いています。
養女
このきれいな娘ヴァルネミュンデの暮らしは必ずしも容易ではありませんでした。望みもしなかったのに、母ロストックの養女にされたからかもしれません。それは次のような次第だったのです。かつてヴァルネミュンデは領主国家の君主、ハインリヒ・フォン・メクレンブルクに属していました。そしてこの小さなヴァルネミュンデを周辺地域もろとも、当時既に豊かだったハンザ都市ロストックに売ったのでした。それは1323年のことでした。その結果ロストックの人々と一緒にロストック市の行政官もやってきました。彼はヴァルネミュンデの行政に携わるほか、ロストック市民の利益を代表するのが任務でした。そこでまずヴァルネミュンデに営業禁止令を発布しました。漁師や水先案内、船乗りたちは彼らの仕事を続けることを許されましたが、他の、職人や商人、漁業の商取引だけをしている人々は禁止の対象となりました。母ロストックは、娘ヴァルネミュンデを小さな村のままにしておき、ヴァルネミュンデに入るべきお金は、ハンザ都市ロストックのものにしたのでした。
かわいそうな娘です。しかし、大変だったのはそれだけではありませんでした。ロストックが戦争をする時にはいつも、艦隊を率いた敵軍はまず海岸から攻撃をしかけたのでした。戦争は繰り返し行なわれ、ヴァルネミュンデはやむなくロストックの前線に立たたされることとなり、多くの攻撃を被ることになったのです。
自信を取り戻した娘
やがて娘にとって良い時代がやってきました。これはまた母親にも利益となりました。ヴァルネミュンデは結局のところバルト海の浜辺を手にしたわけです。浜辺にはますます沢山の海水浴客を引き寄せました。1883年にここで、屋根付きビーチチェアが世界で初めてお目見えすることとなりました。そしてこの小さな娘は自立への道を歩んでいったのです。ここの航空機工場では3万人を越える労働者が働いていました。さらに「ヴァルノウ造船所」が出来て第二次世界大戦後、最初の新しい工業地が生まれました。こうしてヴァルネミュンデに、今日「クヴェルナー・ヴァルノウ造船所」はヨーロッパで最もモダンな造船所のひとつとなっています。
このように自立はしているものの、未だに十分とは言えないところもあります。娘は挑戦も試みています。さらに大きく成長していこうとしているヴァルネミュンデの新しい通りの名称はロストックの地図の中にも見られます。
母の愛、娘の愛
かつての、言わば思春期の娘と母の関係を乗り越えて、今日では双方共に穏やかな微笑みを交わしています。ロストックにはヴァルネミュンデが必要であるように、ヴァルネミュンデにもまたロストックは必要な存在なのです。二つの町は細いメクレンブルクの川「ヴァルノウ」で結ばれて、ロストック市の南部周辺から北のヴァルネミュンデまで約15km延びています。そこではバルト海の塩が混じったヴァルノウの水が海の広大さとひとつになろうとしています。
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|  ロストックの立地条件は素晴らしいと言う、哲学専攻の米国人留学生Nathan Reich: 「近くには国立公園があり、リューゲン島もそれほど遠くなく、ベルリンには3時間で行けます」 (ドイツ語)
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| 関連リンク
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